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蜻蛉玉ブログ

二次創作についてと行きすぎた萌え語り

竜の翼(途中)

いま書いている話
すなわち8月に出す予定の本に載せる話ですが
サンプルとしてPixivに上げるつもりの話の途中までです
この前後に違う話があるので意味の通じない部分もあります
煮詰まってきたのでここに上げてみることにしたのですが
本にする時にだいぶ直すでしょうし中途半端なもので申し訳ないです

竜の翼


鼻を削がれた人間がどんな声を出すか、想像がつきますか。
空気がうまく抜けないうえに、血が邪魔をするんですから、叫ぼうとしても駄目です。喉をやられた時みたいな……ごぼごぼという呻きにしかならない。
舌を抜かれたら、声どころではないのは、わかりますよね。
目を抉られた時が一番まともに声が出ます。
それにしても、聞けたものではありませんがね。

そこに痛みを感じないほど、私も心が麻痺しているわけではない。
見るのが役割、いや、望みなのですから……あの人のやることを。残酷な方向へ振れた画のなかに身を置くのも仕方ない、と思って、そこにいる。
それくらいでは死ねませんので……とどめを刺してやることはありました。戦争では何度もありましたし、慣れたものです。
特段、許しを得てそうしていたわけではありません。
俺が陰でひっそり、酷い制裁を受けた者の息の根を止めていることなど、あの人はご存じだったでしょう。

戦争前は……あの傷を負うまでは、あの人もそこまで酷いことをする人ではなかった。
まあ、他者の人生を蹂躙することに迷いがない、という点では、最初からあの人の本質は十分に残酷だったのですが。

たまに、思うのです。
あの時、爆弾から庇ったりしなければ。
俺もあの人も死んでしまえば。
救われない人間が残されたにせよ、その生を操られる者が増えることはなかった。
あの瞬間、殺したいほどの怒りを覚えて嵐のような混乱の中にいたのに、俺はなぜ。
伏せてくださいと叫んだのか。
義務? 小隊長を死なせてはならないという……戦況の不利になるような事態を避けねばならないという下士としての至極まともな判断?

そうじゃない。
助けたいだとか死なせてはならないとか……惻隠の情、と呼べるものなのでしょうね。
そんなものが自分の中にあるということが、俺にはよくわからないのですよ。
子供の頃からたった一人を除いては誰も、そんな情を俺に抱かなかったのだから。本来、それを教えるべき親が……あれで。それなのに、なぜそれを俺は知っているんでしょうね。

あなたが真実を知って、それでも服従し続けることを選ばなかったとしたら。
きっと、とどめをさして楽にして差し上げることは許されないでしょう。
それは正直……したくないのです。
そう思うくらいには、そういう情がここにあるのは、確実なのです。
他にも……笑いかけられて嬉しいだとか、嬉しそうな顔を見るのが楽しいだとか。持てるあなたですから、目に見えないものまで周囲に与えてくださるのでしょう。その豊かな……豊かな全ては、あなた自身ではなく、父上のもたらしたものだ……。
俺とは、ちがう。

ほらもう、着きますよ。起きてください。
起きていただかないと、俺はこんな風にたまさか心を覆う真っ黒な何かに、塗り込められてしまう。目も口も判然としない黒い獣が忍び寄って来て、風のように心の中へ入り込んで、墨でぐっしょり濡れた全身をぶるぶると震わせて……そこらじゅうを月のない夜みたいにしても足りずにどろりと溜まった墨の中に体を丸めて、どこにいるのかもわからなくなる。心の底を浚おうとしても、澱に足をとられて、動けなくなる。
さあ、目を開けてください。いつものように、何も知らないあなたが駆け出しの青年将校らしく振る舞っているのを見ていれば、黒が灰色くらいにはなるのですよ。

1
「着きましたよ、鯉登少尉殿」
連絡船の切符を取りに、乗客たちは荷物を抱えていそいそと席を立つ。
「うん……」
東北本線の二等車両から、どんどんと人影が引いていく。
窓の外にはすでに、三等車から船入場へと駆け出す者がいて、それに続く人の波が形成されつつある。多種多様な色と柄の風呂敷包みが、まるで足の生えたように、揺れながら眼下を横切ってゆく。

「青森か?」
茶褐色の袖に包まれた腕がにゅっと伸びて、少尉はふわあ、と欠伸をした。
「早く降りましょう。もう誰もいませんよ」
そろそろ車掌が、もたもたしている客を追い出しに来る頃だ。
「まあそう焦るな。船の時間までは、まだあるのだし」
一般客と違って切符の手配の済んでいる我々は、確かに急ぐ必要はないのだが。もたつく軍人、などという姿を一般人の目に晒すのは、体裁がよろしくない。

船の出発時刻は、いつだったか。
懐から帳面を取り出す。降りてから確認しようと、小口のところに指を当てる。
「行きますよ」
背嚢を負って立ち上がり、向かい合わせの座席から通路へと出る。
しぶしぶ、という体とで腰を上げた少尉が俺に続いて一歩踏み出したところで、動きを止めた。
「どうしました?」
三歩ほど先から振り返って声をかけたが、ついてこない。
「しっ」
音を出さずに、唇が動いた。
は・ち・だ。
見える範囲には、その姿はない。少尉の視線の先、すなわち俺の背にいるようだ。

「帳面を貸せ」
布の覆いがついたしっかりした帳面だから、叩くのには丁度よい。
端を掴んで、体を動かさないように静かに腕を差し出す。
褐色の手が厚い紙の集合体を受け取るや否や、ばしん、と背嚢の上から衝撃を受けた。ぶうん、と羽音を響かせて、一寸ほどの黒いものが視界の端を掠めると窓の外へと消える。
「逃げられた」
少尉は悔しそうに顔をしかめる。
仕留めそこねても、出ていったのならまあよしだろう。
「行きましょう」
帳面を返してください。
手を出すと、ぱし、と手のひらに背表紙が勢いよく載ってきた。

「飯を食わねばな」
客車から出て帳面を開くと、出航時刻はちょうど三時間後だった。
「そうですね」
船入場と直結している駅の構内は、一年経つか経たないかのうちに鉄道庁による航路の管理と連絡船の運航が始まるとあって、旅客だけではなく工事に携わる人夫でごった返している。
仮に建てられたらしき食堂はあるが、昼飯時にはまだ早いというのに店外にまで客が溢れている。熱気に溢れたこの地には続々と人が集まってきているのだろうに、設備がそれに追いついていない。
駅の中で食事をするのは難しそうだ。
「どうします」
「ついてこい」

当てがあるのか、少尉は人混みを分けて構内を横切ってゆく。
地面で飯をつつく人夫の足をまたぎ、軍人さん気を付けな、と荒い声を上げて胸先すれすれを通り抜けていく大八車にしばしば足止めをされながら、駅舎の外へ出た。
函館との間の航路が国営化されると決まり、北海道への玄関口として人口増加が著しい。そんな街だけあって、大通りには新しく開かれたらしき店が庇を連ねていて、活気がある。

「父上がな」
歩みを止めて、少尉が手の中を見つめた。いつの間にやら、褐色の指には紙片が握られている。
「はい」
紙には、店の名らしき単語と、青森駅からの道順が書かれているようだった。
「青森に着いたらここへ行けと、行きつけの料理屋を教えてくれたのだ。私が大湊へ来ると知った時にはもう、連絡しておいてくれたそうだ」

目の前の若者と同じ色の肌に白い髭を蓄えた、海軍少将の威厳に満ちた姿を思い出す。
何度か……そう、この5年あまりの間に何度か会ったことはあるが、言葉を交わしたのは今回が初めてだ。その網走監獄への突入作戦についての打ち合わせでも、無駄なことは口にしない寡黙な指揮官、との印象は変わらなかった。

「そうですか」
表面上は冷静でも、やはり息子が己の任地にやってくる、というので心がはしゃいだ、ということか。何事も、外から見ただけではわからない。
「開店して1年ほどだが、鮨が美味くて評判らしい」
楽しみだ、と少尉は機嫌よく話す。
「高級店なのでしょう」
高揚した気分に水をさすのは申し訳ないが、財布の中には、料亭で散財するほどの金は入っていない。
「何を心配しているのだ月島? 私がもつに決まっているではないか」
紙に目を落としては上げ、首を左右に動かして、少尉は店を探している。
「しかし……」
場所の見当がついたらしく、長靴が地道を蹴って進みだした。
「遠慮するな、好きなだけ食べろ」
茶褐色の軍衣の背は、普段より誇らしげに、明るく見えた。

青森駅から駅前通りを満たしていた喧騒から百里も遠くへ来たように、まだ新しい料亭は白木の柱の木目も鮮やかで、さっぱりと静かな佇まいをしている。

「ようこそ、お待ちしておりました」
個室に通されると、すぐさま店の主人が挨拶にやってきた。
「鯉登少将閣下には常々、ご贔屓にしていただいております。この度はご令息の鯉登少尉殿にまでもお運びいただき、身に余る光栄と……」
主人は畳に手をついて、仰々しく口上を述べた。
上座の少尉は手のひらを前にして、ひらひらと振る。
「堅苦しい挨拶はいい。父上がぜひにと勧めるくらいなのだから、さぞかし美味い料理を出してくれるのだろうな?」
うきうきと弾む声が酒も頼む、と付け加えると、心得ております、と返事して、主人は部屋から出ていった。
すぐに仲居が、地元の銘酒と八寸を運んで来る。

「美味いな、月島」
酒を口にした少尉が機嫌よく口角を上げるのを見届けて、俺も透明な液体を喉へ流し込む。
確かに、美味だ。米どころの酒はやはり質が良い。
「美味いですね」
「うふふ」
空の猪口を手に、若者は俺を見て笑った。
「……なんです」
「今まで飲んだ酒で、一番美味いか?」

こんなに美味い酒は、飲んだことがありません。
そう答えることを期待しているのがありありの表情を見ていると、嘘でも肯定したほうがいいような気になってくる。
しかし。

「どうでしょうね」
期待に満ちた瞳の輝きが、申し訳なくなるくらいつまらなそうに褪せた。
「どうとは、なんだ」
「中尉殿にお供していると、酒宴にあずかることも多々ありますので……誰しも、最上のもてなしを、と考えるわけです」
そうだろうな、と不機嫌そうに呟いて、少尉は手酌で徳利を傾けた。
望んだ答えが得られなかった不満と、中尉に近侍してきた俺への羨望と、半々といったところか。
「月島は、馬鹿正直だな」
猪口の半分くらいたまった酒を飲み干して、眉間に皺を寄せると少尉はそう言った。

窓の外でリャー、と椋鳥が鳴き、形よく尖った鼻先がそちらを向く。円硝子から差し込む光に照らされた髪は、いつものように青みがかって見える。
眉間の皺がやや緩んで、薄めの唇が動いた。
「一番です、と適当に誉めておけばよいではないか。私がもつというのに、どうだかわからん、などと率直に答える奴などお前くらいのものだろう」
そうかも、しれない。
少尉なら許してくれるだろうという信頼……いや、それはおこがましい。俺の慢心だ。
「まあ、月島が私にお追従、というのも気味の悪い話だがな」
「すみません」
広い卓に頬杖をついて、少尉はふう、と伏し目がちに息を吐いた。
怒っている様子ではない。となると、慢心だったとも言い切れないか。

「失礼いたします」
襖の向こうから、若い男の声がした。
静かに襖が開いて、白い割烹服の若者が正座で一礼する。料理の載った盆を手ににじって入る若い料理人に、少尉が声をかけた。
「これが、青森で一番いい酒か?」
盆を脇に置いて、若者は姿勢を正した。
「二百年続く蔵元の一級品でございます。他にも良い酒を揃えておりますが、やはりこちらが最も好まれているようでご注文が多く……お気に召しませんでしたか?」
若い料理人の顔が、心配そうに曇る。
「いや、美味かったのだが……私の部下は舌が肥えていてな」
少尉が悪戯坊主のように俺を見ると同時に、料理人の不安げな瞳が俺のほうを向いた。
まるで俺が僭越に不満を述べたような……空気がぎこちなくなる。
「美味いと申し上げましたよ私は」
俺の弁解を聞いて、ふふ、と少尉は笑った。
「他の酒も味見したいから、持ってきてくれ」
「では趣向を変えて、新しい蔵元の酒をお持ちいたしましょう」

幾分ほっとした様子でそう答え、てきぱきと卓上に皿を並べる料理人の顔を、少尉はじっと見た。
「主人の息子か?」
「はい、そのとおりです」
声をかけられた若者は、空になった徳利を盆へと下げると、正座して向き直った。
「やはりな。よく似ている」
言われてみれば、挨拶に来た主人と、瓜二つだ。
「鯉登少将閣下にも、そのようにお声がけいただきました」
「父上がか?」
「はい。恐れながら、少尉殿も閣下によく似ておいでです」
「そうか? 私は母親似なのだがな……肌の色か」
母上の顔を見たことがない者は、そう思うだろう。
「父上は、何か言っていたか?」
「私と同じくらいの歳のご子息が北鎮部隊にいらっしゃるということを、そこで初めてお話しくださいまして……少将閣下が我々に口をきかれることは滅多とありませんので、驚きました」
同年代の若者を見て……いや、父親と同じ道を志す息子、の姿から、思い出したということか。
「士官学校を優秀な成績で出られたと」
「よせ……喋りすぎだ、父上は」
よせ、といいつつ、父が自分の自慢話をしていたと知った少尉は、満更でもない様子でいる。
あの寡黙な少将が民間人にそんな話をするとは、やはり我が子が可愛くて仕方ないのだろう。

「失礼します」
廊下から主人の声がして、襖が開いた。
「次の椀の用意ができておりますので……お出しするのが遅いじゃないか」
小声で叱られた息子のほうが、慌てて盆を引いて居住まいを正す。
「構わん、私が無駄話をしたから……親子だというのを、いま聞いたところだ」
「恐れ入ります、まだ修行中で、至らぬところばかりで……」
主人はただ恐縮しているが、息子を見つめる目は厳しくもあたたかいものがある。
「修行中の身なのは、私も同じだ」
「とんでもない……少将閣下から、少尉殿がいかに優秀でいらっしゃるかは伺っております」
少将は、この親子双方の前で息子の自慢話を披露したらしい。
さすがに少尉も、ばつの悪い表情になった。
「父上がそんなことを話すとは……」
若い料理人が言ったように、少将は店の者に軽々しく声をかけたりしないが、酒も入っていたせいかその日は珍しく饒舌に陸軍少尉となった我が子の話をしたのだと、主人は語った。
「愚息にも、親と同じ道をゆくのは容易ではないが、励め、と仰ってくださいまして……」
「同じ道、か……」

海を選ばなかった海軍少将の息子は、複雑な表情をしている。
陸軍と、海軍。別れはしたものの、軍籍に身を置いている息子をやはり、同じ道にある者と父はとらえているのだろう。
話がすぎました、と料理を出し終えて主人親子は深々と頭を下げた。
我々だけの空間に戻った座敷で、少尉は黙々と料理を口に運んでいる。
だが雰囲気がいくぶん、華やいでいる。

「驚きましたね」
「あ? ああ……驚いた」
我慢して固い表情を作っていたのだろう、話しかけられて、頬が緩む。
「……少将閣下は、少尉殿を誇りに思っていらっしゃる」
口に出したほうが、いいと考えたのだが。
己の言は、予想以上に自分の胸の底を抉った。
同じ道を進む父親と息子。お互いの存在を誇らしく思うような……そんな親子が現実に存在することを否定するほど俺はもう子供ではないが、長い間ぴんとこなかった。
「ふふ」
謙遜するそぶりなどまるでなく、嬉しそうに少尉は笑う。

これで、いいのだ。
健全で、あるべき理想の姿。
俺と、あの親父とは真逆の。
佐渡の粗末な家の、薄暗い土間が脳裏に浮かぶ。潮と泥と、血。黒い獣の、影がよぎる。
来るな。今は、来るな。

任務……任務のことを考えろ。
「親子水入らずで、どのような話をなさったのです?」
そう……この流れなら、自然だ。
網走の作戦についての打ち合わせの後、少しだけ二人きりで話したいとの少将の意向に従って、部屋を出た。廊下で待機していた間、全身を耳にして中の様子を伺った。
内容はわからないまでも、密談、というのは空気を変える。それは扉を隔てても、匂うはずなのだ。

金塊の情報を海軍に流し、最終的にその手に渡るようにする。
仲の悪い海軍と陸軍の橋渡しをする貴重な人物が、海軍を利するための間諜に化ける。
その可能性がないとは言えまい?
妙な動きがないか注意しろ、なるべく二人にさせないように。
見張れ。

あれほど心酔しているのだから、そんなことはないでしょう、という言葉を飲み込んで、はい、と答えた。
大湊水雷団に動いてもらうためには、少尉を使者にするのが自然であるし、他の誰より円滑に事を進められる。同時に裏切りの高い可能性を秘めてもいる、諸刃の剣。他に代わりはないほどの優秀な駒なのに、俺という監視役をつけないと動かせない。
そんな上官の思惑など露知らず、最も熱心な信奉者の一人であるというのに疑念を抱かれるこの人が、憐れだとすら思う。

網走へ出発するまで時間がないのは事実だが、とんぼ返りの日程を組んだのはそのためだけではない。父上の役宅に泊まる暇すら与えず、司令部の仮眠室で束の間眠るだけだったのも、中尉の意向が働いている。だから親子で話す時間もせいぜい三十分、といったところだった。そこで父は息子に、何を伝えようとしたのか。不穏な空気は感じられなかったが、念のために確認はしておきたい。

「ああ……わざわざ人払いをするほどの、何かと思ったらなんのことはない。何度も聞いた話だ」
「と、いうと?」
「竜になれ、と」
おとぎ話か?
飛び出した単語が、緊張の糸をぐんとたわませる。
「竜、ですか」
「鯉が竜になるという故事を、父上はいつも引き合いに出すのだ」
そこまで話して、少尉は刺し身を口に入れ、もぐもぐと咀嚼した。透き通った白い身は、鯛だろうか……鯉ではあるまい。
「月島も、早く食べろ」
卓の上は色とりどりの食器に盛られた料理でいっぱいだ。食べてしまわないと、次が出てこない。上官の後を追って、刺し身に箸をつける。

「要は、立派な指揮官になれということなのだが」
「竜のように強く、ということですか」
それは当然のこととして、と答えて、少尉は煮物の椀を手に取った。
「こう続く。有能な部下を得たら高く飛べる翼を得たと思え、名も知らぬ新兵でも己の鱗の一枚一枚だと思え、と。翼も鱗もなければ、竜だとて飛べず、体を守ることもできぬ、とな」
「部下を大事にしろ、と仰る」
「そう。威張りくさっているだけの将校が、昔から父上は大嫌いなのだ」

部下を大事に、とは、どういうことを指しているのだろう。
心の奥の深い闇を覗き込んで、そこにランプを吊るして、居座っていた過去への拘りをあたかも綺麗に片付けたようなふりをして。ああ救われた、もう真っ暗な底から抜け出せたのだと思っていたら、そのじつ光の届かない部屋の隅に、見えないように嘘の薄布を被せられていただけだった過去が不意に、背を刺してくるようなやり方も……部下のため、といえるのだろうか。

「美味いな……さすが父上が太鼓判を押す店だ」
芋や大根をひょいひょいと口に運ぶさますら、良家の子息らしく品がある。
これほど美味い料理もそうはない。だが、俺にとっては兵営の食事からして格別な馳走だったのだ。ここまで凝って作られたものを、高い金を払って食べる、などということとは中尉と行動をともにするまでは無縁だった。監房の飯ですら、子供時代のひもじさに比べればましだと思えたものだ。
囚人用の冷や飯も、戦地での糧食とも呼べないような寄せ集めの何かのことも、この人は知らない。
俺とは、違う。

そう思い至って、心に冷やりと黒い影がさす。

ありがたいと思う。俺に、美味い飯を食わせたい、と考えてくれているのなら……そうでなくとも、こういう店に伴ってくれるのは、ありがたいことなのだ。
その気持ちだけで満たせない己の心が、浅ましくて嫌になる。良くしてくれる少尉にやっかみのような思いをもつなど……これこそ育ちが悪いというものだろう。
嫌になる。

煮物の椀を空にして、少尉は箸を置くと一息ついた。
「父上は私が陸士に合格してこのかた、ずっと同じことを言うものだから、耳にたこができてしまった」
幾分はうるさそうな口調で話すものの、表情は柔らかく、誇らしげだ。

陸士の制服を着たこの人を連れて旭川へ来た時に、立派な将校になるのなら海でも陸でも構わない、と父上は仰ったのだという。
まともな……いや、まともどころか立派な親だ。
失った長男の代わりに海軍へ入ることを、兄の死の衝撃で船にも乗れない次男に強いている。
事前に知らされていた父親像と、実際とは真逆と言っていいほどに異なっていた。
惣領息子に先立たれた悲しみを抱えて生きている父から、幼さゆえに次男坊は愛情を上手く汲み取ることができていなかった。それだけのことだったのだ。
戦死した兄のことしか見ていない父親に愛されず、海軍将校になれという圧力に潰されかけている可哀相な弟。陸軍に来れば、彼は苦しみから解放される。大湊水雷団の力添えを得るだけでなく、一人の哀れな子供を救いたい。その言葉を信じて我々は……いや、少なくとも俺は……同類である少年を自分と似た苦しみから助け出す、という、あれが半ば善行なのだとすら感じていた……。

「兄さあが見守っていてくれるから、励め、と。いつもそれで話が終わる」
優秀な海軍少尉だった兄君。この人の死が、父の心に重くのしかかる岩となり、弟の行く末を縛る足枷になっていた。あの事件を切欠に、それが父子をあの世から見守り励ます存在になったのだとしたら……死人に対する解釈など、都合よく変わるものだ、と思う。
俺にも、尾形にも、死後に見方の変わることなどない、碌でもない父親しかいなかったのに。

みしり。
黒い獣の足の裏が心の底を踏む、吐き気のしそうな感触が襲ってくる。
硬い爪が心臓の肉に食い込む。
来るな。

「ほら、月島」
若者の、屈託のない声を聞いて、獣の足が止まる。
目を上げると、白磁の徳利を対象的な浅黒い手が握っている。仲居が持って来た、新しい蔵元とやらの酒だ。
鉤型の眉の下の、切れ長の瞳のたたえるあたたかな光を見て、獣があとじさる。
「遠慮するな」
空の猪口を両手に載せて、琥珀色の液体をおしいただく。
「恐れ入ります」

そうだった。
ほんの一日前、月島と話しているのが楽しい、とこの人は言ったのだった。
白い光が心の底をさしとおし、たじろいだ獣が背を向ける。
俺も、あなたといるのは楽しい。まるで自分も白くなれる気さえする。
この罪悪感さえ、なければ。

「燐寸はあるか」
徳利を卓に置いて、少尉は内袋を探った。一服しようというのだろう。
「少々お待ちを」
内袋にはない。
背嚢を引き寄せて中を探っていると、上座の若者が妙に硬い顔になっているのに気がついた。
「どうしました?」
再び猪口を手にした少尉が、固まったように動きを止めて、俺の肩のあたりを凝視している。振り返ろうとしたら、カサ、と微かな音が耳の側から聞こえた。
「……しつこい奴だ」
そこに射止めるように尖らせた目線を動かさずに酒を飲み干すと、猪口を置く。少尉が品書きをとり、静かに振りかぶったその瞬間、黄色と黒の縞模様をまとった昆虫がぶんと羽音を立てて、褐色の手の甲めがけて舞い降りた。

「い……ッ」
微かに眉を顰めた若者の手から品書きをとって、毒針を突き立てている蜂を叩き落とした。ばん、と勢いよく殴られた卓が揺れて、猪口が転がる。品書きと卓との間で絶命したのだろう、虫の動く乾いた気配はしない。
「停車場からずっと背嚢に取り付いて、入り込んでいたのだろう……執念深い奴め」
刺された手の甲を見つめて、少尉は憎らしそうに言った。
「失礼します」
指先を掴んで引くと、切れ長の目がこちらを向いた。
「……月島……?」
腫れかけているそこに唇を当てる。思い切り吸うと、苦味と酸味が口の中に広がった。
繊細な絵付けの施された灰皿に、吸い出した毒の交じる唾を吐き捨てて、再び同じことを繰り返す。苦味も酸味も薄れて、その代わりに知った香りが鼻腔に流れこんでくる。
これで毒は吸い出せただろうが……念のためにもう一度。
「そんなことは、自分でするのに……」
戸惑っているのか、不快なのか。独り言のような上官の言葉は、ぎこちない。
もう、唾液以外の成分はない。唇の中に吸い込んでいる皮膚のなめらかさだけを、舌の感覚が伝えてくる。
手の先すら、よい香りがする。
「すみません」
うっすら赤く腫れている手の甲を、出されていた手拭きでぬぐう。
「謝らなくともよいが……」
ここまでしなくても、よかったのかもしれない。
少尉の言葉で、我ながら過保護だという思いが心のうちに広がる。
「薬をつけましょう」
横を向いて、背嚢の中の薬袋を手に取る。
ここまでしなくても。
何かあるたび、自問自答する。
度が過ぎると、本人が疑念を抱いてしまうかもしれない。
そのたび、同じ結論に行きつく。
この人は、他の人間とは違うのだから。

俺が関わらなければ、ここにこうしてはいなかった。
いや……俺がいなくとも代わりの駒が手を貸して、大日本帝国陸軍第七師団歩兵第二七聯隊鯉登音之進少尉、は存在することになったのだろうが。
俺のせいじゃない。
けれど。

「薬など、なくとも大丈夫だろう」
思考の渦にとらわれかけて、膏薬の缶を探す手が鈍っていた。
少尉は目の高さに上げた手の甲を水平にして、腫れ具合を確かめている。
「痛みませんか?」
「こんなものを痛がっているようでは、軍人など務まらん」
殊勝な言葉を聞くうちに、缶がひやりとした感触とともに掌中に収まった。
「念のためですよ。右手ですから」
この人の行きたがっている戦場では、虫に刺された程度のことに費される薬剤などない。使えるうちに、使っておけばいい。
膏薬を右手の指にとって、左手を差し出す。そこへ載ってきた褐色の手を掴んで、赤くなった部分に柔らかな薬を擦り込む。
「月島はいつも、周到だな」
周到。
そう思っていてくれればいい。
子守と揶揄されるほどに俺が世話を焼く理由を、己の未熟さに求めるもよし、俺の気質に求めるもよし。

「失礼いたします」
声とともに、襖が開いた。
「あっ……!?」
水菓子を載せた盆を前に、若い料理人が驚いて口を開けた。手を握りあっているように見えたのだろう。

「蜂が入り込んでいた。少尉殿が刺されたので、手当てをしている」
客商売には、店にいた蜂に客が刺されたなどと、余程まずいことなのだろう。料理人は気の毒なくらいに慌てた様子になった。
「申し訳ございません、蜂がおりましたとは……!」
「よい。連れ込んだのは我々だ……片付けてくれ」
死骸を指差して、少尉は左手で内袋をさぐった。
「燐寸はあるか」
「ございます」

卓上を手早く片付けて、串形に切った果物を出すと、料理人はすぐに燐寸を持って来た。
「用意がいいな」
「普段から置いてはおりますが、煙草と燐寸を切らさぬようにと、少将閣下から特に代金をいただいたことがございまして……専用にお預かりしているものです。ご子息のためにお一つお出ししても、お叱りは受けぬでしょう」
ほう、と普段は見かけない柄の燐寸箱を、少尉は珍しい宝物のように手の上でひっくり返して見る。高級店らしく、意匠を凝らした美しい模様が施されている。
「竜と鯉、か。こんなところにまで」
手の中の父の燐寸を見つめる少尉は、まるでそこに家族の団欒があるような、懐かしいものを見る目をしている。

この店の主人親子も、鯉登家の父から息子への愛情を知っていてそれを疑わない。自分たちと同様に、固い絆で結ばれていると感じているのだ。
あるものをないと思い込んで、この人を哀れんでいた過去の自分が、滑稽に思える。すぐ側の若者の身を包むあたたかさが、俺の体の芯を冷たくする。
いや……あの茶番がなければ、この親子は心が離れたままで、この二七聯隊付きの陸軍少尉は存在せず、ここでこうして父の燐寸を手にすることもなかったのではないか。罪悪感など、感じる必要はないのではないか?

「月島は、やらないのか?」
「今は結構です」
俺が煙草を取り出せば、少尉は燐寸を俺の手に渡すのだろう。俺の手がそれを……握り潰したい衝動に駆られないという自信がなかった。

主人親子を筆頭に店の者たちの見送りを受けて料理屋を出ると、昼下りの青森の町は一段と人の往来が激しく、賑わいを増していた。少しでも人目を引こうと、珍妙なまでに目立った格好の物売りが威勢のよい声を上げている。
「豆菓子か。美味そうだな」
停車場通りを渡ろうとして、少尉が足を止めた。
豆のさやをかたどった被り物をした豆菓子売りの周囲に、子供が集まっている。
「食事をなさったばかりなのに、菓子など召し上がっては、ご気分が悪くなってしまうのではないですか。連絡船に乗るのですよ」
「船か……」
あからさまにげんなりとして、少尉は溜息をついた。
「空腹すぎるのもよくないですが、腹いっぱいの状態も」
ガラガラガラと、大きな音が近づいて来る。それが何かと考える前に、己の言葉が届くように声を張った。

「わかっている。子供扱いするな」
目を吊り上げた若者の背後に、突如巨大な影が現れた。きゃっと黄色い声がして人波が割れる。
「危ないッ!!」
茶褐色の軍服の肘の上を、思い切り掴んで引く。
驚いて振り向いた少尉の鼻先を、馬車が猛然と駆け抜けた。
きゃあ、わあ、気をつけろ、と往来が騒然となるなか、瞬く間に馬車は見えなくなった。
土煙を浴びて顔をしかめた少尉が、自分の腕に食い込んだ他人の指に目を向ける。
「……痛いぞ、月島」
言われてやっと、指の力が抜けた。
「すみません」
軍服より色の濃い手が、二の腕をさする。
馬車の消えたのと反対の方角を見ると、豆菓子売りの姿が小さくなっていた。
もう豆菓子のことなど忘れたのか、少尉は船入場を目指して歩き出す。

馬車には、いい思い出はない。
俺がこの手で馬車に押し込めたこの人は、あの時より随分と背丈が伸びた。このまま空を見つめて、高く飛べる竜のような指揮官になるといい。
この人が配属されて、旭川にいるうちはよかった。ただ一般的に良き将校たるべく教育を施せばそれでいい、という考えでいられた。中尉の命で小樽へと移って、囚人狩りに関わるようになってからは、この人とその父を計画に引き込むために騙したのだという罪の意識と、結果的に親子を救うことになったのだ、という思いが交互に去来する。
白と黒とが明滅する胸のなかでただひとつ、雪原に立つ針葉樹のように揺らがないものがあるならば。
あの茶番劇に背中を押されて陸軍へ来て、ここにこうして立っているこの人を、自分の目の前で死なせることだけはしたくない。
その義務感だけが、獣の爪より深く、俺の胸に食い込んでいる。

黒く染まって、白に染め替えられて。空へ浮いたり、底へ沈んだり。
あなたといると、俺も船酔いしそうになる。

(続く)

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